アニメ化、映画化
原作漫画とかの作品がアニメ化、映画化されたときに原作との差異を取り上げて、原作への愛がない、というのは極端な例にしても、原作と違うのはだめだ、という主張をする人たちがいる。 こういうのをスラング的な言い方をすると原作厨というようで、そういう人たちについて考える機会があった。
別に原作厨と呼ばれる人を全面否定するつもりはなくて、私自身、原作小説の漫画を読んだとき、あそこをカットしちゃうかー、しちゃうのかー、と何とも言えない気持ちになったことはあるが、世にはびこっている原作と違うじゃねえかという怒りほど表だって発言したりしなかった。 なので私の怒りがそこまで強くなかったのか、というと、そうでもなく、怒りと言う感情自体検討違いな感情だと考える。
原作と違う!について
まず考えてほしいのは、思慮深い原作厨の諸兄には馬の耳に念仏だが本当にそれは原作と違うのか? 「原作のイメージ」と違う、ではないだろうな?ということだ。
例えば、寄生獣
寄生獣、おもしろいですよね。寄生獣おもしろい、好きだ、というわけでアニメ化は素直に喜んだ。 私は色々な複合的な理由で、リアルタイムでアニメを見ない。なので、放送当初の声は私のアニメに対するバイアス抜きに見れたと思う。 事実今さら寄生獣のアニメを見ていた。
あの作品がアニメ化された際に、「ミギーの声が平野綾!?女の声なんて原作を無視している!」という意見が散見された。イメージと違うわー、そこは男だろ、ぐらいならただの意見感想だけど、イメージを無視している、原作を読んでいないというような批判ではなくただの誹謗中傷が見られたのが残念だった。 イメージを無視している、というのは君のイメージだし、原作が大事だというなら最優先されるべきは読者だった君たちではなくて作者ではないかい?もし作者が女のイメージだったとしたら、作者の表現力に問題があったということになるが。そもそも、あの寄生生物たちに男も女もないはずだ。 平野綾が選ばれたこと自体を問題視する人もいた。あれは僕はよくわからない。なにか政治的な策謀というか、業界的ななにか陰謀論というか、そういうのを唱える人が多かった。陰謀論者はいつどこでみても楽しそうだ、という感想以外、思い浮かばない。
個人的な感想
寄生するときの姿が虫のような形をしているから、どっちかという低い野太い声よりちょっと高いぐらいの声の方がいいのではないか、とアニメをみて思った。私も漫画を読んでいるときはちょっとダンディというか、少なくとも男の声で想像していたので、女の声というのに意外性を感じたが、冷静に作品を観察すれば、高めの声の方があったろうな、と思った。これはあくまで個人的感想。
本当に原作と違うじゃねーか!
そういうこともありますよね、明らかに原作と違う。男が女になってたり、逆もあった気がしますね。 これも考えて言ってる人と無思考な人とで差があって無思考な人はひどいことをいっていたりする。
例えば漫画原作
小説でもいいけど、漫画なんかが原作になってるドラマ増えてますよね。いつからだったか急に増えた記憶が。 そういうのに対してもよくある原作と違う、という意見ですが、本当に原作と違うのか。 というか、何に文句を言っているのかというのが気になった。
原作ファンの気持ちを考えろ
原作ファンって言ってる時点でなんだか終わってる気がする話だけど、ドラマは別に原作ファンのために作られるものでもないでしょう。確かに原作ファンのことは無視したような印象の作品は散見されるけど、漫画のように絵と文字でしか表現できないものから何を汲み取るかは人によって違うし、何を汲み取るかは作者が色々考えて作品を書くわけだから、ドラマになったときに汲み取られてないなら一概にドラマ制作者サイドの問題ではなく自分にそういう解釈ができなかったか、原作者の力量不足もあるかもしれないと考えた方がいい。
なんでそこ変えたの
君にはわからない高度な考えに基づいて変えたんだよと暴力的に言い返す人をいまだにみてないので、制作者たちはある程度批判、時には中傷もうけるとわかってるんだなと思いますね。 ままあることで、さっき例にあげた男が女にとか。恋愛対象になってなかった二人がいちゃこらしたりとか、そういうのですね。 私は前者は割りと受け入れられるけど後者はあんまり受け入れられないタイプ。
じゃあ何で変えたか考えると、漫画や小説なら問題にならなかったことが問題になり得るからということが考えられる。 例えば漫画だと絵柄で作風、作品の方針が表現されることがある。シリアスな話をギャグ漫画と同じ絵柄で書くことは少ないはずだ。たまにギャグ漫画のなかでシリアスな話になることがあるが、多少なり絵柄が変わってると思う。 これがどう繋がるかと言うと、例えば女が男になってる場合だ(逆もしかり)。絵柄がギャグチックでとても恋愛に発展しそうにないように漫画では見えても、イケメンな俳優と美人な女優で演じてしまうとそうは見えないのではないか、と危惧して変えた例があった。 よく批判で見かける「恋愛してないのにさせるなよ」というのと逆だ。視聴者に生まれうる誤解として恋愛をしてないのに、しているように見てしまうというのを排除するための改変である。 漫画をドラマにするときは特にそういう誤解を生みやすく、アニメ化よりも危険だ。
上にあげた例だけで、何でそこ変えたんだよ、を網羅できるとは思っていない。 例えば、恋愛してないのにさせてるというのは網羅できていない。これはここよりあとで書くものの方が近いかもしれないし、それは本当に変えたのか?というところまで思考を巡らせる必要がでるぐらい理不尽な改変だと私も考えているからだ。
原作者の意図を無視してる
これもよく見るタイプです。国語の「作者の気持ちを答えなさい」という問題が得意そうな印象ですね。これは誉めてるのではなく皮肉なのだけど、この皮肉でだいたい今からいうことが想像つくだろう。 君の勝手に想像した原作者の意図とやらは、本当に原作者の意図で、その想像には間違いもないのか?とは原作者の意図という言葉を盾にして君の解釈のことを言ってるだけじゃないか? これをいうと、いやこれはどう考えてもこうでしょ、こう以外に考えられない、という人がいるけど、思考ができているのか疑うレベルなのでここではそれについては触れない。ここで、俺の解釈はこうなのに何で違うんだよと言う人の方がまだましだ。
特に漫画小説原作でこれをいっている人を見ると滑稽だ。オリジナルアニメなどの場合原案者だけでなく色々な人の要素が最初から入って、それを作品にするような行程を踏むようだが、漫画等の場合その作品の方向性を決めるのは大部分は作者だが、編集者の意図も往々にして入っている。ある作品は作者は毎回終わらせようと話を書くが編集が終わらせなかったからこの長さになったとか言う話は有名である。その作品の真偽はさておき編集者は作品に口を出す。その編集者の意図が入っている作品、例えばここでは漫画を原作者の作品と認めたからこそ原作者の意図を無視しているという意見が出てくるはずだ。原作者の意図がそこに必ず反映されているとは限らないのに、である。 この時点でこの原作者の意図を、というのは崩壊しているのだけど少しばかり屁理屈くさい。 その原作者の意図を無視した、というその漫画原作のドラマとか映画が、原作者の真意でないという確信はどこから得たんだ?というのが本当に言いたいことだ。 編集がここはこうした方がいい、といったから原作ではこうしただけで、本当はこうしたかった、ということがドラマや映画で反映されたのではないと言い切れる、作品を書いて出版されてから、あそこはああじゃなかったな…とか、極端な話、こいつ女にして主人公といちゃこらさせたかったなとか、そういうことはないのだと確信を得ていないと、原作者の意図を無視しているという発言は飛び出てこないだろう。原作者の意図を完全に汲み取れるエスパーか、傲慢な人出ないとその発言はできない。もちろん原作者自身が、あんなのやめてほしいといった時なんかはそうだ。 原作者が一切関与してない、二次的な作品などないはずだ。
なんでこんなことを書いたのか
この件に関してだけじゃないけど、誉める人より否定批判をする人の方が声が大きい。いいものと感じるものは制作者側の意図がうまく伝わったからいいものと感じるので(悪いものを意図的に作っていない限りそうだろう)あまり言葉にはしない。言葉等にしきれないところも伝わっていればなおさらだ。 たまにはこんなことを書く人の一人ぐらいいてもいいはず、と思った。それだけのことである。
最後に
最初にも書いたが、別に原作厨と呼ばれる人たちを全面否定するつもりで書いたのではない。 なかには彼らのいうことが正しいこともあるだろうし、ここでわざわざそれを書いたりはしていないので誤解されないようにもう一度書いておこうと思う。 もっとも、正しいと思ったことがあるかというと記憶にないのだけど。 作品の矛盾を指摘するとかならともかく、それを見ることを強要されたわけでもないのに愛せもしない作品をみて、自分の想像と違えば怒る、というのが子供じみて見てたというのもあった。 私自身、これは、変えないでほしかったな、ということもあるけど、あまりに原作と違うということを指摘することがまるで鬼の首をとった功績を口にするように大声で叫ばれているのが目に余ってこんなところに吐き出している。