マグカップの裏

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Breaking Badシリーズを見た

本編→エルカミーノ→ベター・コール・ソウルの順番で見た。過去に本編は見たことあったんだけど、どこまで見たんだか…ベター・コール・ソウルもみたから本編全部見たはずなんだけど…って感じだった。 見た作品が長いからしょうがないところはあるが、長文になっている。また、ネタバレも含むので見てる途中の人とかはそのつもりでいてほしい。

Breaking Bad本編

本編はやっぱり面白い。よくできたシリーズ。ウォルターのやり方と性格の悪さにドンドン嫌気がさすのだが、結局彼も家族のためと思って行動している。そう思わせて、本当に家族のためだったか?金のためじゃなかったか?自分の失った過去を取り戻すためでしかない、自己欺瞞の塊じゃなかったか?と人生に対する葛藤を猛スピードで体験させるような作品だった。

彼は終始家族のためと主張しているが、その家族を誰よりも傷つけてしまったのは彼で、壊したのも彼だった。 妻に浮気され、挙げ句その浮気相手に自分が稼いだ金も使われ、それでも家族を思って金を残そうとした彼は家族思いだったのか、それしかもう残っていなかったのか。 彼はしょっちゅう金しか残してやれないというようなことを言う。せめて金だけでもと。だけど、彼には家族しかなかった。せめて家族だけでも、自分のもとに置いておきたいという感情があったはずなのだ。だけど、それが最後にはなくなって、一方的に家族に金を残すという手段のような目的のようなものだけが残ってしまった。

手段の目的化なんて簡単に言うけど、どっちが目的だったかなんて、簡単にわかりゃしないのだ。それがわかるような問題は、些細な問題なんだろうと思う。

彼はあるとき、「ああ、あの時だ」というセリフを吐く。あのとき、自分は死ぬべきだったのだ。死にたかったとか死んでいればよかったとか、今死にたいとか、そんなもんじゃない。紛れもなくあのとき自分は死ぬべきであったし、死ななければならなかった。その機を逃した。

人生生きていれば死にたいと思うことは、両手じゃ数え切れないどころか全身の毛を使って数えても足りないほど思う。生まれてきたくなかったと思うことも同じぐらいある。少なくとも僕はそうだ。だが、あのとき死ぬべきだった、というのはなかなかない。ウォルターはきっとこんな感情を抱いていたんじゃないだろうか。 生まれてこなければよかったとは思わない、だけど、死に損なった。その幸せを、幸せのまま終わらせたかった。

こんな感情はそうそう抱けるものではないと思う。

だが結局悪事について回るのはマムシのような後味の悪さだった。どうあがいても逃れられない。足など洗えない。

そして物語が進んで、最後の最後。結局彼はなんやかんやあって捕らえられていたジェシーを救う決断をした。ジェシーと彼の関係はあまりにも複雑というか、行き過ぎているというか。お互いに殺し合いのような、見えないナイフで刺し合うようなことをしながらも、実際に殴り合ったりしながらも、最後には彼を救うことになる。彼の目的を果たすだけなら別にジェシーを助ける必要はなかった。でもそうした。 ジェシーはウォルターにとって、できの悪い教え子だった。だけど自分の人生の最後の瞬間を、あまりにも長い瞬間を一緒に過ごし、生き抜いた。ジェシーと二人で。大事に思った家族でもなく、何度も裏切り挙げ句、ジェシーの恋人を見殺しにまでしたのに、ジェシー・ピンクマンこそが彼に残された家族だったのではないか。

結局彼には最後、ドラッグ製造という商売しか生きる目的がなかった。それさえ捨てて例の「掃除機のフィルター」の電話をかけた後に、その機会さえ捨てた。そうして、ジェシー・ピンクマンだけは取り戻した。結局ジェシー・ピンクマンはジェシー・ピンクマンを捨てることになるが、彼は生き延び、ウォルターはようやく望んでいた死を手に入れた。

そして、エルカミーノへと続く。

エルカミーノ

エルカミーノは2時間ほどの映画作品なので、サクッと見られると思ったがかなり重たい話であった。ジェシーが監禁されていた頃何をしていたのか?というところにフォーカスがあたっていて、ジェシーとトッド、そしてジェシーの友達との関係に付いて掘り下げている。

ジェシー中心で話が進むが、ジェシーがどんなやつか?というのは本編からさほど印象は変わらない。これが作られたのは本編が終わって5年以上経ってからだということを踏まえると、俳優や監督の手腕がわかる。舞台裏もNetflixで公開されていて、小道具だのメイクだの、5年前を再現するというところにもすごく力を入れている事がわかり最高である。ぜひそっちも見てほしい。

その舞台裏で、エルカミーノに登場する悪党の一人の俳優がこんなことを漏らしている。「この物語の登場人物は、その時の損得で動いていて、正義とかそういう大義で動いているわけではない」と。

これを聞くと、批判のように聞こえるかも知れない。だけどこれはあらゆる場面において真実だと思う。人間が大義のために動いているつもりでも、結局はその時の損得勘定に後付でいくらでも肉付けできる。その肉付けが異常に上手なのがソウル・グッドマンだったりする。誰しもそうで、だけどそれ故にその時の損得勘定や感情に抗うことの尊さを覚えさせる。

最後の最後のシーン、ジェシーはかつての恋人とともにいる。回想だが、きっとずっと共にいたんだなと思わされれるシーン。そこでこんな会話をする。

「君が宇宙について言ってたこと、考えてた。宇宙の導くままに生きるって。いいよな。イケてる哲学だ」 「表現はかっこいいけど、最悪な哲学よ。ずっと宇宙に身を任せて生きてきた。でも運命は自分で作る方が良い」

正直本編ではこの恋人滅茶苦茶嫌いだった。死んで安心した視聴者も、僕だけではないはず。 彼女はジェシーを堕落させて、ドラックにどっぷりハマらせた。だけど、そのきっかけを与えたのは間違いなくジェシーだった。まるで共依存の関係のようにふたりでドラッグにハマっていく。そして、その依存症から脱出させるべく更生施設に入れるのは、この恋人を意図的に見殺しにしたウォルターなのだ。ままならない。

だけど、この会話で全てが精算されたような気さえする。

彼女に対する嫌悪感を最も覚えたのは、ジェシーがドラッグで稼いだ金をさも自分の金のように話しているシーンだと思う。みんなそうだよな?と思うけどどうだろう。 彼女は宇宙に身を任せて生きてきて、それを変えたいとは思っていた。だけど、人間は弱い。眼の前に大金がぶら下がれば、やっぱり飛びつく。ドラッグだってそうだ。そういう意味では、ジェシーのほうがはるかに自立心があった。彼は金とかドラッグとか、まぁ良いものだな、とは思うけどどうでも良くて、自分で切り開いた世界を生きていきたいんだなあと思った。だからお互いに惹かれたんだろう。

正直この映画については、演技と映像技術が良すぎてそっちのほうが印象に残っている。あと、スキニーピート。お前がいいやつすぎる。本編からそうだけどさ。まぁチンピラではあるんだけど滅茶苦茶いいやつなんだよな。ドラッグとか金とか、家族とか恋人とかそんなん些末なんだなとさえ思えてくる。ジェシーが彼らを頼ったのもわかる。お前は俺のヒーローだから、といって手を貸すシーン。きっと嘘ではないけど、彼なりの気恥ずかしさとかもあったんだろうなって思う。

結局、Breaking Badシリーズで最後まで逃げ延びるのはジェシーだけだった。ジェシー・ピンクマンという身分を捨てて生きる。寒い雪道を、かつての恋人との会話を思い起こしながら、一人で走っていくシーンは彼のこれからの人生を表しているようで、本当によくできた作品だと思う。

ベター・コール・ソウル

ソウル・グッドマン。Breaking Badで、おそらく1,2を争うレベルでファンが多い人物じゃないだろうか。僕も大好きだった。 そんな彼にスポットを当てて、Breaking Badの前日譚を描く。前日譚って、蛇足になりがちなイメージが強いのだが、この作品は全ての総まとめという印象だった。蛇足感は全然ない。彼は最初、ジミーマッギルとして登場する。それが本名だ。

正直、最初の方はやっぱり蛇足になるのではと思わされた。チャックとのいざこざとか、いるか?って。だけど間違いなくこの前日譚があってこそのソウル・グッドマンだった。この作品を見た人は、チャックとジミー、どっちのマッギルに感情移入しただろうか。僕は正直、最初こそジミーだったが、段々とチャックに感情移入していった。弟が心配でしょうがない、でもその一方で、本当に目障りな存在だ。弟が心配と言ってるけど、本当は自分の立場だけが心配だ。でも、やっぱり弟を思う気持ちはある。 その一方で、チャックは本当に嫌なやつだった。ジミーを一切認めようとしない。とにかく、自分が中心でないと気がすまないのだ。ジミーが中心になることなど無い。

この物語の前半は、ずっとジミーとチャックが見えない銃をお互いに突きつけながら、口論をするような感じだった。終始そう。でも、お互いがお互いを気にかけ続けている。

しかし最後には、チャックはその銃口を自分に向けることになる。ソウル・グッドマンの策略の結果として。 焼身自殺のシーンがあまりに脳に焼き付いている。チャックは、なんとなく机を蹴って、ランタンを倒そうとする。いや、倒れてしまったことにしようとしていた。その演技に、強い感情移入を誘われた。死にたい、でも死ぬのは怖い。思い切った死に方などできない。ただ、ランタンが倒れた。彼の弁護士人生で最後に弁護したのは自らの希死念慮だったのではないか。死にたかったんじゃない、疲れて、うっかりしていたんだ、と。

もう一人の主人公とでも言うべき存在がマイクである。マイクは終始かっこいい。彼がどうして穏やかな老後を選ばなかったのか。なぜ、ギャングに手を貸す悪党で暗殺者で探偵になったのか。彼の中にずっとあった、正義と建前の間の確執が描かれている。みんな当たり前にやっている「本当は悪いこと」を「ただの悪いこと」として捉えることがいかに難しく、そう捉えることがいかにリスキーか。正しく生きることの難しさと、そう生きたところで待っているのはろくでもない人生だということを思い起こさせる。

ソウル・グッドマンは、ずっとそれと向き合うことを避けて生きていた。それも一つの人生だし、ほとんどの人はソウルほど悪事を働かないにしても、そういう人生を生きていると思った。人の心は弱い。彼はなし崩し的に、日銭を稼ぐためとはいえそんな弱い心を持って生きづらい世界を生きた犯罪者の弁護をしていくなかで、自分の人生を何度も彼らと重ねたんじゃないだろうか。 公共の場で下半身を露出した人を散々弁護している描写があるが、彼自身過去にそういう事件を起こしてチャックに助けられているのだ。後悔と贖罪が、彼を突き動かしていた本当のモチベーションだったのではないか。

自分は全うで有能な弁護士。兄のチャックのような。そうなろうとして、なれなくて、でもやっぱり小狡い犯罪者でいることは許せなかった。兄がいなければ、おそらく簡単にそうなることを許せただろう。彼は自分を最後まで認めてくれなかったチャックにいつまでも認めてもらいたく、でも自殺に追い込むほど憎んでいた。

真っ当に生きるのが結局は一番いい。モブキャラがいかに尊く生きていることか。だけど、それほど難しいこともやっぱりないのだ。 最後に彼は、ソウル・グッドマンであることを捨てる。捨てようとする。が、周りがそれを捨てさせてくれない。ソウルに電話しよう。彼が作ったキャッチフレーズが、彼という人物像が彼自身を縛り付ける。人は自分の在りたいようにあるのではない。周りがってほしいと思うようにしか在ることができない。それが窮屈なら、周りを変えるしかない。彼はそれが上手で、ジミーマッギルという、家族の束縛を捨てたソウル・グッドマンを作り出した。しかし、もう彼にそんな力も、気力もない。

ウォルターは死によって開放された。 マイクは自ら生きることを手放し、やはり死によって開放された。 ジェシーは自律的に動いて、逃げ延び、今も自分と向き合い続けている。きっと後悔しない日はこないだろう。シャワーを浴びる度に、監禁されていたときの感情を思い出す。素敵な女性と巡り合うことがあっても、きっと彼女の影を重ねてしまう。 ソウルは、開放されることを手放した。結局彼は小悪党で、でも恋人を心から愛して、後悔した。ソウル・グッドマンではなく、ジミーマッギルを名乗ることで、最後にそれを、何度も他人のために立った法廷で、自分自身の弁護人を務めることで取り戻そうとした。判事や検事は、もう彼には見えてなかったんじゃないだろうか。見えていたのは過去の自分と、兄のチャックだけだったんじゃないか。

まとめ

この作品群は本当にいい作品だった。通して見終えたときに、天という福本伸行氏の作品に登場するアカギのセリフを思い出した。

「自分の身さえ捧げれば、自分の身と引き換えならば…。どんな違法も通るという誤解…それで責任を取ったような気になるヒロイズム。とんだ勘違いだ…責任を取る道は身投げのような行為の中にはない。責任をとる道は…もっとずーっと地味で全うな道…」

この道をずっと取り違え続けているのがBreaking Badシリーズだな、と思う。 誰もが一発逆転だったり、誰かすごい人に引っ張り上げてもらって、あるいは夢を叶えて、人生に綺羅びやかなものを帯びさせることに執心する。だけど、そんなものはない。自分が人生に負った責任を果たすということは、運命を自分で作るという行為は、地味で全うなのだと思う。